熊野街道を行くコース
市内には歴史的に重要な5つの街道が通っていますが、その代表が「熊野街道(くまのかいどう)」です。古代南海道(こだいなんかいどう)が、平安時代おわり頃の熊野詣(くまのもうで)での流行に伴って熊野街道となり、近世以降には「小栗街道(おぐりかいどう)」、や「紀州街道(きしゅうかいどう)」と呼ばれるようになりました。市内には宿場「信達宿」がおかれ、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の熊野行幸(ぎょうこう)や、紀州徳川公(きしゅうとくがわこう)の参勤交代(さんきんこうたい)の行列でたいへん賑わったと伝わります。今も昔の面影を残す町家が残されており、ゆっくりと散策すれば、当時の「空気感」が感じられる街並みとなっています。
【参考時間:徒歩約2時間】
根来街道を行くコース
根来街道は市の北西部、樽井を起点とし、信達地域から風吹峠(かぜふきとうげ)を越え、紀州根来寺まで続く全長約17kmにわたる街道です。紀州と大坂とをつなぐ大動脈として長く人々の往来があり、天正(てんしょう)13(1585)年には豊臣秀吉(とよとみひでよし)による根来攻めの舞台となるなどしました。樽井に残る街道起点の碑には、天保(てんぽう)10(1839)年と刻まれています。アップダウンの多いロングコースですが、沿道には伝統的な景観が良く残されています。近年、真新しい道路に置き換わった場所もありますが、休憩を挟みながらどうぞゆっくりと巡ってみてください。
仁右衛門坂は樽井台地の上からまっすぐに樽井の浜へ向かってくだる坂道で、上からの眺めは壮観で、天気の良い日には関空島(かんくうとう)を遠望することができます。江戸時代に酒造業(しゅぞうぎょう)や廻船業(かいせんぎょう)を営む豪商、深見仁右衛門(ふかみにえもん)が、商品を船積みするのに便利なように、自分の屋敷から浜まで一直線に坂道をつけたものと伝わっています。
【参考時間:徒歩約2時間】
浜街道を行くコース
浜街道(はまかいどう)は、大坂と紀州和歌山とを結ぶ紀州街道のうち、泉佐野市鶴原(つるはら)で分岐し海岸沿いを進むルートを指します。孝子越街道(きょうしごえかいどう)とも呼ばれ、参勤交代のルートが熊野街道に決まるまでは、紀州藩主(きしゅうはんしゅ)をはじめとして、熊野街道よりも人々の往来が多かったと言われています。
江戸時代おわり頃の思想家である吉田松陰(よしだしょういん)も訪れており、嘉永(かえい)6(1853)年3月には岡田地区に10日間以上も滞在したと、日記に記されています。
岡田地区の里外神社は、仁徳(にんとく)天皇の時代、呉服大明神(くれはだいみょうじん)を産土神(うぶすながみ)として創建されたと伝わります。呉服は、三国史の時代、呉(ご)の国から来日し、機織(はたお)りの技術を伝えたとされる織姫で、「機織り」の守り神として崇拝(すうはい)されています。現在の祭神はスサノオノミコトですが、境内には後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)由来の池をみることができます。
【参考時間:徒歩約1時間20分】
神話と伝承をめぐるコース
古事記、日本書紀によれば、日向国(ひむかのくに)(宮崎県)を治(おさ)めていたカムヤマトイワレビコ(後の神武(じんむ)天皇)が、民の幸せを願い豊かな土地を求めて、東へ向かい出発し、途中、いくつもの困難を乗り越え、大和国橿原宮(かしはらのみや)(奈良県橿原市)で神武天皇として即位(そくい)したとされています。大和へ向かう途中、泉南市でのストーリーをたどっていただけるコースです。
カムヤマトイワレビコの兄イツセノミコトは戦傷の治療(ちりょう)のため、大阪湾を南下し、茅渟国(ちぬのくに)山城(やまき)水門(みなと)(山之井水門)に上陸しました。あまりの痛みに雄たけびをあげたことから、雄水門(おのみなと)と呼ばれるようになったとされています。イツセノミコトとカムヤマトイワレビコをお祀(まつ)りする男神社は、市内随一の古社で、平安時代はじめの公文書にも登場します。イツセノミコトから授けられた玉石を祀ったのがはじまりであるとされ、創建の場所である天神の森は元の宮と呼ばれ、住宅地の中にあっても古(いにしえ)の景観がとても良く残されている神秘的な場所です。市内には雄水門に由来する「オ」で始まる地名が多く残るほか、イツセノミコトやカムヤマトイワレビコを讃(たた)える行事もみられます。ほかにも神話にもとづくストーリーが各所に散りばめられているので、ぜひ神話の世界を巡ってください。
【参考時間:徒歩約2時間30分】